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2012年2月27日月曜日

03. 竹田真理:「We dance 京都2012」とふたつのラディカル

「We dance 京都2012」はプログラム・ディレクターきたまりの、ほとんど危機的なまでのダンスへの不信感を下敷きとしている。察するにそれは、ダンスの制度や環境といった外的な条件以上に、ダンスを信じることが出来ないということ、もっと言えば「ムーブメント」を信じられなくなっているということではないかと思う。ダンスとはいうまでもないが、3次元空間における身体の動き、すなわち腕の一振りや足の踏み出しの一歩を単位とし、その組み合わせであるムーブメントの展開に美学的価値を見出す芸術である。だがこの「いうまでもないが」がツッコミの入れどころで、ポストモダン以降、ダンスは自らを巡る既成概念へのツッコミや疑いを原動力に進展してきた。「We dance 京都」もまたダンスを美学よりも構造から問い直そうとするアーティスト同士の集まりである。かつてのジャドソン教会派もかくあったかと思わせる、未完で、真摯な実験の場、ただし60年代の問題意識を今日そのまま引き継ぐのではなく、コンテンポラリーダンスの隆盛を経験した後に、アーティスト達の自発的な問いの場として継続していけば理想だろう。

 一方、いささかの不謹慎を承知の上で言うと、「ダンスとは何か」と自己言及的に問うこと自体に少々飽和感がある、というか、生真面目に根拠を問う作業に、これ以上の展開はないのではないかという、見切りというか、既視感というか、行き詰まりを感じていることを白状する。実験とは仮説を立て、それを証明したり確認したりすることだから、必ずしも新しさを求める必要はないし、むしろ個々のアーティストの必然による取り組みは、次へすすむためのプロセスでもあるだろう。だがラディカルが真面目さを伴うと閉塞へ向かう。ダンスとは何かと根源的に問うこと自体が閉塞へ向かうという局面に、コンテンポラリーダンスがさしかかっているとしたら。さらに言えば、「ダンスとは何か」という問いは、いまやひとつのスタイルと化しており、たとえば「ノンダンス」なぞは商標以上の意味を持つとは思えなくなっている。そういった中で自らの内発性に従ってこの本来孤独で先鋭的な問い「ダンスとは何か」に衒いなく向き合うことができるか。しかもユーモアをもって。「We dance」はそうした難題をはらんでいるように思う。



 さて、きたまりのダンスへの懐疑は、今回のテーマのひとつ「演劇とダンス/身体性の交換」にも反映されている。私は一部を見ていないのであくまで限定的であるのだが、ここには方向性の異なる二つのラディカルさが見て取れた。ひとつは文字通り「根源を問う」もので、パフォーマンスを通してダンスの生成過程やダンスが成立するぎりぎりの条件を探ろうとする。相模友士郎の『先制のイメージ』はまさにそうした作品で、知的で、真摯で、繊細で、緻密で、論理的な作業を要するものである。

 ダンスの身体を“潤色する”感情やイメージ、私という主体を捨て去り、身体そのものを取り出そうとする試みを、相模はダンサー野田まどかに作業を要請しながらすすめていく。野田の極私的な身振りに対し、コカコーラ、すなわちグローバルな大衆消費社会の象徴的アイテムにまつわる歴史や逸話を対置させる構図が鮮やかで、周到な手はずを踏んで理屈で迫っていく相模の知的な手法が光る。コカコーラを巡る延々とした言説は、語ろうとすればいくらでも語れるというアイロニーに通じ、ナラティフの要素を極限まで削ぎ落としていく身体と、最終局面で共振する。ただここまでのストイックさ、緻密さは、ひとつはずすと功を奏さず、今回はあまり遠くまでは行けなかったように思う。人形遣いの段に至って、シャドウ・ワークから立ち上がってくるはずの虚の身体が見えづらく、最後に取り出された身体は案外、想定内の「ダンスの生まれる瞬間」であった気がする。

 さて、もうひとつのラディカルさは「根こそぎにする」というもので、こちらはただひとり、多田淳之介が気を吐いている。腕力勝負の、理不尽で、過激で、スキャンダラスで、演出家の権力濫用というほかないのが『RE/PLAY』である。サザンやビートルズなど超ポピュラーな楽曲で思い思いに踊る8人のダンサーの図に、動きの即興性とかダンサー同士の関係性へと論をすすめればふつうのダンス批評。だが楽曲がフルコーラス終わるたびに8人はサドン・デスといった具合でくたばり果て、再び曲が鳴り出すと起き上がってゼロから踊り始める。この繰り返しの果てしない構造が、ダンスの根拠も意味も、それを問うことの文脈もなぎ倒していく。イントロが鳴るたびに上昇する徒労感、青筋立てているダンサー、繰り返しの恐怖には笑うほかなく(見る側には実際に笑い出す者もあった)、演出家の悪意を感じたが、いっそ爽快ですらあった。この全く別種の想像力が、閉塞感漂うダンスシーンに風穴を開けるか。きたまりが東京から多田を呼び寄せた意図が見える。

竹田真理[ダンス批評]

写真:『RE/PLAY』演出:多田淳之介(ゲネプロ撮影)

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