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2012年3月28日水曜日

08. 増田美佳「We dance 京都2012 参加レポート」

「We dance」を終えて、自分のなかに滞留しているものを言葉にせねばと日々けしかけながら、気が付くと3月も終わりに差し掛かり、2月、極寒の立誠小での記憶も春が近づくと共に緩みつつあった。せめて桜が咲くまえに留めておかなければと今ようやく文字に変換している。

「We dance」のオープニングでジャムセッションを企画しようと思うが、ただダンサーが楽しく踊っても仕方ないので、何かルールを設定してやれないだろうかときたまり氏からお話をいただき、今回ファシリテーターをさせていただくこととなった。
出演ダンサー以外の飛入り参加も可能性なセッションにしたいという意向を受けていくつかのルールを考えてみた。

ひとつは舞台上に机が一台あり、その上にカードが2束ある。一方は数字もう一方は体の様々な部位、右腕、口、左足親指、胃などと書かれている。私は踊らず数字と体のカードを一枚ずつ引く。たとえば「3」と「右肘」と出たら、アクティングエリアに3人、右肘で踊るというルール。一回3分ほどで時間を区切り、またカードを引く、「12」「股関節」、「1」「臍」、「7」「左肩甲骨」…。それを1時間やるという設定。

もうひとつは短い振りをあらかじめ考え、その動きを全員で共有するという方法。その振りは大きく動いたり、小さく動いたり、振りの範囲内で動きの伸縮の余地を含み、個々の体に翻訳されつつ皆同じことを話しつつ対話するような状態になる。以前演劇のWSで何か一言を共有しその一言だけで対話するというエチュードをやったことがあった。例えば「おはよう」の一言。それをダンスでやるとどうかと考えたのだ。このルールでやるなら、前半はこの縛りの中で踊り、後半その動きから振り自体を各々展開させつつセッションを試みてもいい。

しかしこのふたつのようなルールだとジャムセッションというよりも、振付けになってしまうのではないかという懸念と、もっとオープニングイベントとして自由に踊っていただきたいという思いもあった。
動き自体の制限は最小限にとどめ且つ野方図にならない場を提案する方法として、最終的に選択したのは「とまる」を共有するということだった。
アクティングエリア内で誰かが止まったら全員動きの途中で静止する。 感覚としてはビデオの一時停止(pose)ボタンを押す感じで、静止状態のなかで次に誰かが動くか、外から誰かが入ってくると全員静止を解く。 静止している時間の長さ、静止が入るタイミングも場のリズムのなかで変化する。 そして静止後に動き出すとき、さっきまで動いていた動きを留めたフォルムから、次にこう動いていくという軌道や速度を意識的にずらす、ということをしてもらう。方向、角度、速度、ニュアンス、ずらし方、ずらし度合いはひとつのフォルムの前に無数にあるが、静止したフォルムからできるだけ、ここで止まらなければ自分ならこの選択はしないであろうという方向へ各々の体を連れ出してもらうことが狙いであった。 さらに動く/止まるを共有し、場全体のリズムをつくることに全員が関与しながら、それぞれの体としては使い慣れた回路ではない動きをリセットの繰り返しのなかで探しつつセッションをやってみてはどうかと考えたのだ。そして前半このルールでやり、後半はルールなしのフリーインプロにして、それぞれの体の多国籍言語が飛び交うこの「We dance」というイベントのオープニングを参加者でつくるという流れをイメージしたのであった。

そして当日、このルールと意図をできるだけ丁寧に解説しようとして余計にわかり辛くした私のまずい説明が影響したことはまず大きくあるのだが、徐々に「とまる」ということが単なるストップモーションにしかなっていないのではないかと思われる状況になってきた。即興のなかで発生する関係性にシーンのようなものが出来てしまい、それをどのように面白くするかという方向に意識が流れていると見受けられる展開になっていった。それをすべて否定的に思う訳ではないのだが、即興で踊るということは何かしようと目論むことよりも、今ここで受動的に自らに起こるムーブメントに対して忠実になったときにあらわれる動きでなければならないのではないだろうか。シーン的な、具体的関係性のなかに体の置き所を見つける安住よりも、拠り所のないひとりひとりの体の拮抗があってこそ即興でしかできない関係性や場というものは立ち上がってくるのではないだろうか。こんなふうに書いてはいるがそれは容易なことではないし、私が即興において大切だと考えることであり、即興というものの捉え方はダンサーによってもちろん異なる。いつの頃からか踊ろうと決めたそれぞれの体は、どのような欲望と展望をもって踊り場に留まっているのだろうかと眺めていた。

前半の「とまる」を共有している間は、言葉を使わない、物に触れない、無音、と動き以外の要素を加えない方が明確に意図している状態にダンサーを導けたかも知れない。ダンサーは客席とアクティングエリアの中間地点に座っていた。場がアクティングエリア〜企画参加ダンサー〜客席というグラデーション配置になっていた。この配置に面白みも感じてもいたが、ダンサーにとって身を隠すことも可能な隠れ蓑にもなっているのではないかとの指摘も受けた。当日人が集まった段階で出る意思のある方全員アクティングエリアの上手下手に座ってもらうようにするなど、まず体を据える位置を変えることによって見られることへの意識を明確にすることができたかも知れない。
意図したものとは違う場が展開されているときに、私自身のその場での舵の取り方について悩んだ。中断することもできた。それともどのような状態であれこの場に起こったことが、意図していないものであったとしても、つまり想定していることをはみ出していることも即興のなかで起こっていることであり、ひとつのあらわれとなっているとするべきか。ファシリテーターという立場とは何なのか。どのような振る舞いになったとしても軌道修正をすべきという思いと、この1時間の回答は参加者それぞれの体から引き出されるものだ、という思いの板挟みで地蔵のようであった。何よりそうなっている自分に対して即興性のなさを噛み締めていた。
それでも緋毛氈の上に晒された体に瞬間瞬間の魅力を感じるところも少なからずあった。
しかしこのセッションの1時間の為に足を運び、お金を払ってこのセッションを見てくださっている方々に今回のジャムセッションで見ていただきたかったものがあらわれていないということはやはり悔やむところであり、課題として残ったことである。

今回このような機会を与えていただき、また自分にとって踊るということがなんであるのか、踊ることにどのような可能性があるのかをあらためて考えるきっかけをいただいたことに感謝しながら、今後も惑い踊らされ踊っていこうと思う。

増田美佳[俳優・ダンサー/「We Dance Kyotoオープニングジャムセッション」ファシリテーター]

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