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2012年3月2日金曜日

05. きたまり:「ダンスの閉塞感から、身体の可能性へ」

よく文句を言います。ダンスが面白くない、と。
ここ数年は陰で文句を散々たれていました。ただ、その反面、身体は面白いという絶対的な信頼もありました。ダンスは面白くない、身体は面白い、というこの距離を狭めるためにどう具体化しようかとジタバタしていた時に「We dance 京都」のプログラムを立てることになり、面白い身体に出会うための仕掛けを試してみようと思い、今回のプログラムを考えました。

そこで、コンテンポラリーダンスの時代の流れの中で、この10年の間に、大学やワークショップでダンスを学んだり、劇場やNPOが上演のバックアップしてくれたりという比較的恵まれた環境で学んだり、創作活動を行ってきた20代から30代半ばのダンサーを中心に声をかけました。
この世代の共通点の一例として、自身で作品も作れてテクニックも持っているダンサーは、ダンス以外の創作方法に触れる機会が少ないこと。関西で多くのダンサーを輩出している近畿大学や京都造形芸術大学を卒業した若手ダンサーは、作品作りを行う際に同じ大学出身のダンサーを起用することが多く、教育機関で学んだ共通の身体言語に依存してしまう。そして若手ダンサーのコミュニティの狭さも感じる。こうしたことを意識して、出来るだけこれまでに出会ったことのない人同士が出会える場を作りたいと思い、お見合い叔母さんのように誰と誰が合うんじゃないかと想像して、どう出会わせるかと考え、今回の「We dance 京都2012」をプログラミングしました。

1日目はジャムセッションとトーク、2日目は7組の作品上演を元・立誠小学校で行い、クロージングイベントをUrBANGILDで開催したのですが、全ての上演が1回のみという貴重な時間だったと思います。

2日目に上演した7組の作品は二つのプログラムで構成しました。ひとつは、一緒に作品を作ったことのない振付家とダンサーが出会い創作を行う「New Creation
 若手振付家、ダンサーによるダンスショーケース」に4組。20代前半で近畿大学出身の菊池航と中西ちさと、30代前半の日置あつしと荒木志珠が振付を担当しました。
各企画とも初めて会うダンサーとのクリエイションを2週間〜5週間行い、20分〜30分の作品の上演を行ったのですが、普段とは多少異なる方法で初めて会ったダンサーとのクリエイションに挑んだことが、振付からもダンサーからも垣間見れたように思います。そこには、ディレクションをした側の満足感と手応えはありました。ただそれでいて、作品、身体の方向性がとても曖昧に感じられたのも正直な感想です。
これは私がダンスを面白く感じない原因のひとつでもあるのですが、振付家やダンサーという身体に対しての主観が強いアーティストが、自分の主観をどのように言語化して客観性を見つけるかというのが全体の課題としてあったと思います。振付家がダンサーの身体を扱う際にどのような作業を行うのか、身体の扱い方や作品の方向性をダンサーにどこまで提示できるのか、普段一緒に作品を作っていない関係だからこそ、もっと振付家もダンサーも疑問を言語化してぶつけていくことができたのではないかと思います。客観性=観客に伝える力でもあるし、そこで振付家とダンサーの共通認識や対等なコミュニケーションが生まれるような気がします。
大抵の日本の若手コンテンポラリーダンサーが身体の強度、技術的なものがそれ程高くないという現状の中、純粋にダンスで観客を感動させるのは至難の技だと思います。そもそも「純粋なダンスとは何だ?」ということでもあるのですが、今ここで定義する“純粋なダンス”とは主観が行き着いた先にある客観性をそなえた身体、技術的にも申し分なく舞台上での再現性がきちんとある身体を表しています。
しかしながら、こんな身体になるには大変な時間と経験が必要で、そこを目指していくのは並大抵のことではないし、時間のかかることです。今回は若手主体の企画の上に、クリエイションの時間も予算も限られていました。しかしながら、身体を自身の表現手段として選んだからには、それをどう構築していくか、そのための言語や手段を明確にしていかないと、コンテンポラリーダンスの前途は多難だとかなり冷静に感じております。
そして、主観と客観の曖昧さ(なんとなく)の恐さというのを、非常に感じます。

一方で、その主観と客観の曖昧さ(なんとなく)をハッキリと拒絶したのが、もうひとつの企画「演劇とダンス/身体性の交換」で、演劇の演出家がダンサーの身体を扱いクリエイションに挑んだ3組には明確にありました。20代の相模友士郎、30代の多田淳之介、40代の筒井潤とちょうど5〜6才の年齢差がある三人の演出家が、共に初めて〈出演者が全てのダンサーである〉という条件の中で1週間〜8週間のクリエイションを通して、40分〜80分の作品に挑みました。扱う身体がダンサーになった際にどの様なことを試みるのか未知数ではありましたが、それに関わるダンサーにとっては刺激的な時間になるだろうという確信がありました。
蓋を開けると、三者共に異なる身体への眼差しがハッキリと見えたこと、そしてダンサー自身もそこに真っ向から立ち向かっている関係性を感じることができ、演出家にとっても、ダンサーにとっても濃厚な時間であったことを伺わせ、ディレクション側としては申し分なく客席から充足感を味わうことができました。
しかし同時に、ダンスの現場で活動をしてきた人間の立場からは悔しい感情もあります。ここまで明確にダンサーの身体を客観的に扱うことで、ダンサーに主観(作品を踊る身体)と客観(作品の目指す方向)を与えることができる演劇の演出家の客観性/言語には、今後の身体の可能性を探るものがありました。

私自身も振付家でありダンサーでもある立場なので、こういった発言は自分自身も含めて言っていることですし、必ずしも若い世代だけの問題ではないかもしれません。“コンテンポラリーダンス”という名目での公演を2000年代に沢山見れる機会がありましたが、その中で、“こうゆうものがコンテンポラリーダンスである”という認識ができてしまったことが邪魔している部分があると思います。認識や見本ができてしまった時点で「コンテンポラリーダンスではない」と言ってしまえば簡単ですが、次の世代の身体の方向性が発生していない、もしくは発生しているがダンサーや振付家がそれらを言語化できていない、という現状の中で若い世代にとってはコンテンポラリーダンスがすでに古びた言葉であることも事実としてあります。

ただ今回の「We dance」を通して、身体を扱う表現者として、身体を扱う探究心、そこから広がる可能性を無くしてはいけないということを肝に命じることが出来ました。
正直、「We dance」という形では再度京都で行うことはしないでおこうという気持ちでいます。語弊がないようにいいますが、次にこのような機会を設ける時は、今回の「We dance」を足掛かりに関西のアーティストが自発的に興味を持っていること/探求したいことを交換する場を新しく作っていければ良いなと思っているからです。
"行動しない者には文句をいう権利はない "ということを肝に命じて、次世代のアーティストがこれからを作ること、上の世代が作ってきてくれた状況に感謝と敬意を払いながらも、移りゆく身体の覚悟と共に、ダンスが、身体が、もっともっと面白いものになればいいと思っています。 そのために何が必要か、しっかり考えていきましょう。

最後になりましたが、参加アーティスト、ご協力頂いた方、ご来場の皆様、本当にありがとうございました。

きたまり[振付家・ダンサー/「We dance 京都2012」プログラムディレクター]

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